そらまめの雑記

本などで学習した内容のアウトプット・好きな事や物・日々思ったことなどを書いています。

具体と抽象

こんにちは、そらまめです。

 

今日は具体と抽象というものの関係について学んでみました。

 

私たちは普段、「具体的」「抽象的」という言葉を使うと思います。たいていの場合は「具体的である」というのは、分かりやすく肯定的なイメージで、「抽象的である」という場合は、分かりにくく否定的なイメージで用いられているのではないでしょうか?このイメージは本当に正しい物なのかを考えていきたいと思います。

具体と抽象というのは、対立する概念です。具体というのは一つ一つの個別事象の事を指し、抽象というのは同じ特徴を持つ複数の物を「まとめて」一般化したものです。

具体化のメリット

では、まずは「具体化」の方のメリットを挙げてみましょう。具体的な表現というのは、とにかく目に見えて直接的である分、だれにもわかりやすいことが挙げられます。そのため、「行動に直接つながりやすい」というのも具体的に表現することのメリットです。その効果の一つとして「感情に訴える」ということがあります。ある人の体験談と、多数の人の経験を一般化した理論の話と、「感動を与える」のはどちらかといえば体験談であることは明らかでしょう。抽象的な表現は客観的である反面で冷たい感じを受けます。

抽象化のメリット

それでは逆に、抽象的であることのメリットは何でしょうか?それは、共通点をもつ複数のものを同時に扱うことで「応用が利く」ということです。別の表現をすれば、抽象的であることは「解釈の自由度が高い」ことを意味します。これが応用が利くことにつながります。抽象化することで、その共通の特徴を持つグループの一般的な法則を導くことが出来、「一を聞いて十を知る」ことが可能になります。つまり限られた経験や読書から、限りない領域への学びを得ることが出来るのです。これが人間を人間たらしめる知能の基本となるそうです。

「抽象的な考え方」というのは、一度覚えてしまったらもう後戻りが出来ないほど便利な概念であるにもかかわらず、自らの理解を超えてしまった抽象性を前にすると途端に人は「抽象的でわからない」という感覚を持ってしまいます。抽象化とは、「要するに何なのか?」を考える能力の事であり「考える」ということは抽象概念を操作することと言い換えることも出来ます。

具体と抽象の往復

具体的な事象を抽象化することと、それを再度復元して自らの具体的な課題に当てはめてみるという、「具体と抽象の往復」が、まさに人間の知的機能の重要な要素ということになります。これは仕事や日常生活での様々な問題の解決の手順にも当てはめることが出来ます。

例として、「たとえ話がうまい人」というのがいますが、これがまさに「具体と抽象の往復」の典型的な例です。たとえ話というのは、今話題になっている領域を「要するにどういうことか?」と一旦抽象化し、その禿頭にあっている卑近な例に再度具現化することで、抽象化された二つの世界の共通性を表現するということです。これがうまい人は、例外なく抽象化能力にたけている人であるといえます。

まとめ

「抽象的だから」ということを毛嫌いせず、それを自らの経験と照らし合わせて「具体と抽象の往復をしてみること」が最高の「頭の体操」になります。プレゼンテーションや資料作り等でもこの「具体と抽象の往復」が重要です。「徹底的に具体的な状況の描写」と抽象化された「要するに何のか?」とを両方意識することで、どちらか片方だけのものよりも引き締まると共に分かりやすくできると思います。

私も具体と抽象の往復を是非とも身に付けたいと思っています。

#新生活が捗る逸品

こんにちは、そらまめです。

今回は#新生活が捗る逸品ということで記事を書いてみたいと思います。

私の場合は、「釣り」ですかね。休職をしていたこともあり、復職に際しては気分転換というかストレス解消に重点を置くようにしたいと考えています。その為に釣りを20年振り位に再開することにしてみたのです。海のチョイ投げとフライフィッシングなのです。

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海釣り

海の方は昔の道具を引っ張り出してきて1回行ってみました。釣果は良くはなかったですが、久しぶりに波の音と太陽に照らされて非常に気持ちがよく心を無とまではいきませんでしたが、だいぶリラックスして過ごすことが出来ました。なによりも、魚のあたりがあった瞬間の感覚がたまりませんでした。非常にいい気分転換になりました。

フライフィッシング

フライフィッシングのほうは、まだ始めたてというか1回道具を借りながら連れて行ってもらい、教えてもらったところですが、前からあこがれていた釣りでもあり、道具を揃え始めてしまいました。こちらは海と違い、釣っている最中は忙しい釣りですが、その分海より集中してリラックスというよりもスポーツを楽しんだ感覚に近いものがありました。

まとめ

海もフライフィッシングも感覚は別ですが両方ともストレス解消とと日常を忘れられるという意味ではとてもいい気分転換になってくれそうです。両方とも距離的に通いやすい点も良いところだとおもいます。

復職してからが、ある意味新生活とも言えると思います。そういった意味では「釣り」は「新生活が捗る逸品」になってくれそうです。復職日ももうすぐなのですが、その日に向けて着々と準備を進めていきたいと思います。

 

論理と感情のギャップ

こんにちは、そらまめです。

今回は論理と感情のギャップについて考えてみたいと思います。

論理と感情のギャップとはどういうこと?とお思いになると思いますが、日々の生活において引き起こす問題の結構な部分がこの論理と感情のギャップから起こることが多いのです。

つまり、論理的には正しい(理解できる)が、感情的に正しくない(理解できない)場合と、論理的に正しくない(理解できない)が、感情的には正しい(理解できる)場合の2パターンです。こういわれてみると、「なるほど」と思われることもあるのではないでしょうか?

なぜこのようなギャップが発生する?

それは、論理と感情を基にした判断では根本的に異なっていることがあるからです。

まず、論理的であるとは、「誰が聞いても話がつながっている」ということです。つまり必ず客観性が求められます。逆に「感情的である」というのは、「必ずしも万人にとってつながっていなくてもいい」、つまり必ずしも客観的でない主観の領域という事になりなす。

ギャップが発生するときの例で見てみると、まず、感情的に判断することの代表例として、ものごとを「好き嫌い」で決めることが挙げられます。好き嫌いというのは、当然人によって異なる主観的なものですね。「好きだからこれに決めた」というのは、個人の選択としては当然の事ですが、集団や組織の中では必ずしも通用する「論理」ではありません。

好き嫌いがはっきりする状況というのは、特定の「人」に対してというのが多いのではないでしょうか?例えば、会社の中で「(好きな)あの人が言うなら信用して彼の案を採用しよう」というのは、感情的な面では納得できても、論理的な意思決定とは言えません。したがって、「あの人の発言」のどこがどう良いのかを客観的な数字やデータで示さなければなりません。

逆に論理的には正しいが感情面で納得できないという例が、嫌いな人に正論を吐かれても受け入れられないといった状況が考えられます。もう一つの例として、「機嫌が良ければなんでもYes」だが、「機嫌が悪ければ何を頼まれてもNo」といった気分屋の判断も、客観的に説明できない意思決定の例と言えます。

このようなメカニズムによって、組織の活動等で「正しい意思決定をしたのに人が動かない」という事態が頻発します。「人が動く」には個人が感情面で納得することが必須条件になるのに、「正しい」意思決定とは、通常「論理的に正しい」ことを意味しているに過ぎないからです。

何らかの集団をコントロールするには?

その為にはこの、2つの領域(感情的には理解できるが、論理的に出来ない・論理的には理解できるが、感情的には出来ない)をうまく扱うことがキーポイントということになります。論理的に理解できても、感情的に理解できない時というのは、例えば大きな組織改革をするときに問題になります。会社統合の後に二つの会社のやり方を統一しようとする時などは「相手の会社のやり方に合わせる」というのは理屈の上で正しくても、感情面では素直には従いたくないものですから、こうした「反対派」を説得する場合には、あまりに論理をふりかざすのは逆効果になります。

大河ドラマの「真田丸」のなかにも、「人は理屈で固められると、心を閉ざす」という言葉が出てきます。まさにこの通りの事です。

逆に感情的には良くても、論理的には良くないパターンは、個人へ訴求する商品開発の意思決定をする場面では、必ずしも理詰めで検討した商品がヒットするとは限りませんから「集団の意思決定」をする場合でも、最後は感情が支配するという現実を踏まえた上での決定が必要になります。

最後に。

「集団の意思決定やルール作りは論理に基づく必要があるが、個人を動かすのは感情や心理である」という基本的原則が、時に様々な矛盾を引き起こします。これを十分に踏まえて柔らかい頭でバランスを取りながら行動するのが、特に組織で動く際に注意すべき点になると思います。

好きな物②

こんにちは、そらまめです。

 

今回は、以前にやった好きに物の第二回を行いたいと思います。

今回も前回同様動物の中からになります。

それは、猫です。私は犬派・猫派ということはなく、どっちも好きです。妻も同じ様に両方好きですね。

猫は、犬とは多少違いこの種類が飼いたいというのはありません。出会った時のフィーリングが大きな比率を占めると思います。

ですので、飼う猫の見つけ方としては、やはり第一は譲渡会ということになるでしょうか。その他では確率は低いですが、友人等から譲ってもらったり、迷い込んできた子を迎える等も選択肢に入ってくると思います。

私個人の印象ですが、犬の譲渡会よりも猫の譲渡会の方が開催される頻度等も多いように思います。

ですので、私が猫を探すときには足しげく譲渡会に通って家に来たいと言ってくれた子をお迎えするようにしたいと考えています。年齢等は特に条件は無いですが、病気の子は私達に面倒を見切れるかが心配になります。面倒を見られるのであれば全く問題は無いのですが、もし、私達の技術が足りずその子を苦しませる様なことになってしまうとすれば、素直に諦めざるをえません。また、頑張れば面倒を見られるというレベルも私達に疲労等が積み重なってしまいその子に影響を与えてしまう可能性を考えると、避けるべきだと思います。可愛いというだけで安易に引き取るのだけはよそうと思います。

命を預かるということをよく考えて引き取るようにしたいと常に考えています。

 

めぐり逢い、大事ですね~

今年、学んでみたいことは?

こんにちは、そらまめです。

今年、学びたいこと・・・

なんか考えると沢山でてくるのですが、その中で実現可能なものはそんなにない気がします。

まず、一番に取り掛かりたいこと

これは、英語の学習ですね。まず、理由なのですが、まあこれからの時代は話せたほうが便利でしょうし、なにより、2か国語理解できるってどんな気持ちなんでしょうか?英語と日本語同時に聞いちゃうと混乱しちゃうんですかね?とても興味があります。それに、海外への移住とか仕事をするという事を考えたときに、まず英語が出来ないから無理と考えなければいけないのが嫌だからですね。壁を取っ払いたいのです。

すでにリスニングは取り掛かっているのですが、他にも単語の学習や・文法・発音に関しては手付かずなので、そちらも取り掛かっていくようにしたいです。最終的にはきちんとでなくてもいいので話せるようになりたいですね。あと、TOEICも頑張ってみたいと思います。やることは沢山あるのですが、並行して進めていくのがよさそうですね。まずはリスニングと単語の学習と発音かな?まあ、期限があるわけではないので継続して学習し続けることが一番大事だと思います。

フライフィッシング

 

これは、もともと興味があったのですが、機会に恵まれなかったのですが、去年出会った方の中に趣味にされている方がいらっしゃって、今年初めて管理釣り場という所に連れて行って頂いて、やってみたところ想像を超える面白さと奥深さに「やはり始めてみたい」という思いが強くなり、始めることにしました。

フライフィッシングは技術はそれ程敷居の高いものではないので管理釣り場(釣り堀のような場所)ならば、結構簡単に釣りをすることが出来ます。

ですが、自然の渓流となると話は全く別物で、何よりも知識が重要になってきます。自然をよく観察し、そこから魚と餌となる水生昆虫の情報を仕入れ、解析し釣れるのかどうかを見極めたうえでキャスト出来るようになるのです。

それ以外にも使用するフライの種類がまあ訳の分からない位沢山あります。今の私はチンプンカンプンです。現在は、道具を少しずつそろえている最中なのですが、連れて行って下さった方によると、安いお手軽な物よりも結構ちゃんとしたメーカーのそこそこ良い物をそろえておいたほうがいいとのことで(長持ちする為、結局は良い物が欲しくなるそう)、結構いいお値段のするものをちょっとずつ揃えているところです。

もしかしたら、この時期が一番楽しいかもしれない(笑)。

と、いうわけでフライフィッシングについて学びたいことは、フライの種類・使用環境と自然観察とその解析についてですかね。これは中々奥が深そうで、学びがいがありそうです。今年中に渓流デビューを果たすと共に一匹釣ってみたいです。

まとめ

以上が、私の今年、学んでみたいことになるのですが、こう挙げてみると両方とも習得には時間がかかりますね。熱しやすく冷めやすい性格の私に継続できるか不安なところはありますが、とにかく学習を続けて、学習自体を習慣化できるところまで持っていければ何とかなると思います。いえ、何とかしたいです。今は、ワクワクする気持ちで一杯です。時間を作り挑戦し続けたいと思います。

 

数字は最後の拠り所?

こんにちは、そらまめです。

 

今回は、「数字」について取り上げてみます。と言っても数学的な話ではないですよ~

数字は私たちの身の回りにあふれていますね。物の大きさや値段、あるいは会社の給料や売上等、ゲームやテストの成績もすべて「数字」で表現されます。この様な数字が使われる場面に共通しているのは、「万人が同じ物差しで客観的に比較をし、表現する必要がある」ということだと言えるでしょう。ここでのポイントは、「万人が同じ物差しで」ということです。つまり、数字というのは様々な人が「共通に」判断できるものである必要があります。逆にそれぞれの個人でしか表現できない事、例えば、感情やイメージは数字で表現できません。芸術家のやっていることは、ほとんど数字では表現できないと考えればさらに明白になるのではないでしょうか。

新しいアイデアを考えたり、日々の仕事で工夫する場合にも、数字で考えることは一つのオプションとして必ず出てきますが、「数字」というのは「万人に理解できる」=「アイデアとしては、斬新ではなく、陳腐なもの」となる可能性が高いということになりやすいです。例えば、何も工夫していない営業担当者が顧客に出せる魅力的なオプションは「値引き」しかありません。もちろん、顧客に製品やサービスを買ってもらうために、価格が重要な要素を占めることは間違いないですが、プラスαを提示することも重要になってきます。

同様の事で、会社が従業員のモチベーションを上げるためにとれるオプションが「給料を上げる」とか「手当てを増やす」などの金銭という「数字上の施策」というのは、実は「最も頭を使っていない」施策ということになります。もっとも、その施策すらしない企業も多々ありますが。

さらに、これらの事例の問題点は、「値引きにひかれて購入する客」や「高給のみにつられて入社する社員」といったような「狭い物差しで考える人」を呼び寄せてしまうことです。こうして「数字の罠」に落ちていくと、更に思考停止が加速していく事になります。

 

新しいアイデアを出したり、工夫を凝らして改善したりするための「頭の使い方」には大きく二通りの方向性があることがわかります。

一つ目は「決められた物差しを数字の上で上下させる」ことですが、これは極端に言うと「何の工夫もない、誰にでも思いつく陳腐な発想」ということができます。

二つ目は「他と比較できないような新しい物差し(評価基準)を新たに発見して定義してしまう」ことです。例えば、何らかの新しい商品を開発するのであれば、「使う楽しさ」や「見た目の美しさ」といったこれまでと異なる「ものさし」で勝負をかけ、なおかつ「客観性を確保するのが難しいこと」や「定量化することが難しいこと」を考えることで発想を膨らませるというのが、やわらかい頭の使い方ではないでしょうか。

みなさんも、数字に頼るのは最後の最後にして、その前に新しい物差しを定義できるかを考え、数字化するのが難しい方向から考えてみるとまた違った考え方が見るかるかもしれませんね。

常識・非常識の使いどころ

こんにちは、そらまめです。

 

今回のお話は「常識」「非常識」についてです。

私はあまり好きな言い方ではないのですが、「そんなの常識だよ。」とおっしゃる方も結構いらっしゃると思います。

では、常識とは何なのでしょうか?「一般の社会人が共有していて当然の知識やルール」といった定義が恐らく違和感のない考え方ではないでしょうか。

ですが、本来「どこでも誰にでもいつでも通用して当然」のはずの常識は、まさに場所と時間と個人といういわゆるTPOによって自在に変化することがあります。そう考えると、常識は実はちっとも常識でないことになってきてしまいます。

 

私たちは常識・非常識という言葉をどのような時に使っているのでしょうか?

よく考えてみると、この言葉は「自分の常識」と「他人の常識」との間にギャップがあるときに用いられていることが殆どです。それも、レアケースではなく日常的に起こっていることに対してのことも多くあります。

私たちが「常識」という言葉を使うときには、「暗黙裏に当然と思っている自分の価値観」をあたかも世の中の正義であるかのように正当化したい場合であると言えます。

この様に、「常識」という言葉ほど自分勝手に用いられる怪しい言葉はありません。

それにもかかわらず、私たちはこの言葉を「本当は常識ではない」ことに用いてしまう悪い癖があります。これは「思考停止」典型的な症状です。

これに対して、どの様に考えればこの様な思い込みを排除して、やわらかい発想ができるのでしょうか?

それは、よく言われることですが、「常識を疑う」ということだと思います。

「なぜ?」「どうして?」と疑うことによって、相手は「だって常識だから」とか「昔からそうだから」と思考停止の姿勢を崩さないものになるでしょう。そうしたら、相手と一緒に考えてみてはどうでしょうか?

そうすると、その常識の本当の意味での、「理由」や「目的」が出てくるのではないでしょうか。

その時点で、その常識の時間、場所、人のいずれかに変化が生じて当てはまらなくなっているのなら、思い切ってその常識を忘れてみることが頭を柔らかくするための必須条件になるのではないのでしょうか。

皆さんも「常識だよね~」と流すのではなく一度「本当に?」と立ち止まって考えてみる方が良い場合があるかもしれませんね。