常識・非常識の使いどころ
こんにちは、そらまめです。
今回のお話は「常識」「非常識」についてです。
私はあまり好きな言い方ではないのですが、「そんなの常識だよ。」とおっしゃる方も結構いらっしゃると思います。
では、常識とは何なのでしょうか?「一般の社会人が共有していて当然の知識やルール」といった定義が恐らく違和感のない考え方ではないでしょうか。
ですが、本来「どこでも誰にでもいつでも通用して当然」のはずの常識は、まさに場所と時間と個人といういわゆるTPOによって自在に変化することがあります。そう考えると、常識は実はちっとも常識でないことになってきてしまいます。
私たちは常識・非常識という言葉をどのような時に使っているのでしょうか?
よく考えてみると、この言葉は「自分の常識」と「他人の常識」との間にギャップがあるときに用いられていることが殆どです。それも、レアケースではなく日常的に起こっていることに対してのことも多くあります。
私たちが「常識」という言葉を使うときには、「暗黙裏に当然と思っている自分の価値観」をあたかも世の中の正義であるかのように正当化したい場合であると言えます。
この様に、「常識」という言葉ほど自分勝手に用いられる怪しい言葉はありません。
それにもかかわらず、私たちはこの言葉を「本当は常識ではない」ことに用いてしまう悪い癖があります。これは「思考停止」典型的な症状です。
これに対して、どの様に考えればこの様な思い込みを排除して、やわらかい発想ができるのでしょうか?
それは、よく言われることですが、「常識を疑う」ということだと思います。
「なぜ?」「どうして?」と疑うことによって、相手は「だって常識だから」とか「昔からそうだから」と思考停止の姿勢を崩さないものになるでしょう。そうしたら、相手と一緒に考えてみてはどうでしょうか?
そうすると、その常識の本当の意味での、「理由」や「目的」が出てくるのではないでしょうか。
その時点で、その常識の時間、場所、人のいずれかに変化が生じて当てはまらなくなっているのなら、思い切ってその常識を忘れてみることが頭を柔らかくするための必須条件になるのではないのでしょうか。
皆さんも「常識だよね~」と流すのではなく一度「本当に?」と立ち止まって考えてみる方が良い場合があるかもしれませんね。